天皇杯4回戦【新潟紀行】
2008年11月04日
観戦記などを書いたり、応援メッセージを書いたりするのが、オフィシャルブログとしては本道なのかなと思うけれど、それに限らず様々なエントリーがあって、欧州から旅行の日記を書いてくれる人もいれば(楽しんでますよ)、「帰りの会」を展開される人もいらっしゃる(懐かしいですよ)ので、僕も今日は紀行文を書きたいように書かしてもらいます(つまらないですよ)。 なぜか今年の僕の遠征は戊辰戦争が大きなテーマの一つになってます。140周年だし、篤姫やってるし(こじつけ。) 終盤を締めくくるに相応しく、いよいよ負けた側の土地にやってきました。今年行った伊予松山でも熊本でも佐賀でもお城を見たけれど、今回途中で寄った長岡には、現在お城がありません。長岡は北越戊辰戦争の中心となった地。普通、城は町の中心にあって、維新後は県庁として使われたりして、今は街の中心の公園になり、周囲は官庁になっていて、公園の真ん中から大通りが通っていて、その両側にかつての城下町=今の繁華街がある、ということが多いのだけど、長岡の町の中心にあるのは、長岡駅。戊辰後、徹底的にやられ、現在はその中心だった場所が駅となっているのでした。つまり、これが長岡城址。 戊辰時の長岡の中心人物といえば、この間から書いてるけど、河井継之助。なにしろ司馬遼太郎さんの「峠」という作品の主人公だし、ドラマにもなっているし、ご存知の方も多いと思います。実際はどうだったかわからないけれど、「峠」では面白い人物として描かれているのだが、下級武士だったのが、幕末の混乱時に家老に大抜擢され、藩の財政を改革、建て直し、武器を揃え、国を東西に分けての戦争の最中に、長岡藩の武装中立を目指します。優秀な人物で時勢を見極め、どうするのがよいかを考えて実行できる人物のようだったけれど、居場所がなにしろ小さな長岡の藩士、日本を変えようというより、武士として自分のいるべき場所で自分のやるべきことをやる、と決めた人。もし生まれが違ってて中央に出て行けば、日本を大きく変えて歴史にもっと大きく名を残したのだろうけど、武士としての藩に対する忠誠心、藩としての幕府に対する忠誠心を第一に考えたのでした。その決心は、彼の限界というより、彼の美学なのだと僕は思います。 薩長軍が、途中で各藩を薩長側に寝返りさせ、戦隊を増幅させながら長岡までやってくる。一方、会津藩を中心とした旧幕派も勢力を整え、長岡に集結します。まさに長岡が東西のぶつかり合う場所となります。河井はしかし、どちらにも付かず、中立を目指します。そのために、横浜で最新鋭の武器を大量に調達してます。その資金は米の裁定取引などでがっつり儲けて調達しました。
これがその最新鋭の武器、ガトリング砲。(河井継之助記念館にある複製。)連射式の大砲というよりは大きめな銃で、1分間に200発とか300発とか撃てたらしい。日本に3基しか輸入されなかったのを長岡藩が2基買占め。 長岡で戦争になれば悲惨なことになる。そこで、薩長軍の軍監に会見を求め、戦争回避を図ります。戦争を回避するよう旧幕側にも掛け合うので、攻撃を待ってほしい、しばらく時間をくれ、と。ところが、会見に応対した軍監が、まだ21かそこらの若造。河井は当時41歳くらいだったのだが、それなりに、人物として名前も通っている。弱小な長岡藩の家老ながら、一目置かれている人物。がしかし、この若造は、知識も経験も乏しかったため、河井のことを知らず、単に時間稼ぎの悪あがきと決め付け、取りつくしまもありません。(ずっと後に反省した文章を残している。)結果、戦争は回避できず、長岡は悲惨な戦地となります。
戦争中に指揮を執るのに使った軍扇。 旧幕派もよく戦ったのだけれど、負けてしまって、体制建て直しのために会津を目指します(今も磐越道ってあるもんね。新潟の高速を走っていると、福島まで100kmというような表示をよく目にします。)当時は足で移動するわけだから、困難な山越えだったわけで、負傷していた河井も、福島県の只見というところでついに人生を終えることになります。 そんなわけで、亡くなった場所の只見にも、長岡の生家跡にも、それぞれ「河井継之助記念館」があるのでした。
上記の会見に使われた場所。当時、薩長軍が根城に使っていたお寺で、長岡の隣、小千谷にあります。住職が、横浜から来た我々一行のためにいろいろ説明してくださいました。当時、薩長軍は4000人いたのだが、それを2500名の中心部隊と1500名のサブ部隊に分け、サブ部隊の隊長は、薩摩・長州のパワーバランスを保つために薩長以外から登用ということで土佐出身のぽっと出の新米下士官に任せることとしたんだとか。一度、せいぜい50名くらいの小隊を率いた経験があっただけのこのアンちゃんは、いきなり1500名の大きな隊を任されて舞い上がっちゃった。えらく傲慢な態度で河井をケンモホロロに追い払ってしまいます。もう少し、彼に知識なり経験なりがあれば、維新の歴史も少し違うものになっていたかもしれません。
長岡にあるお墓にお参りしてきました。 今年の遠征も、岐阜と笠松を残すだけとなりました。一年って早いなあ。 -- takaoh
- posted by takaoh
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