「団旗はためくもとに」

「団旗はためくもとに」 重松 清 著

書評というほどのものでもないが、昨日の日記の流れで、重松清さんの著書を簡単に紹介です。紹介というか、単に感想を書くだけだけど。

重松さんは63年の生まれで僕と年も近いので、少年時代を描いた作品や、現代の父親を描いた作品などに大変共鳴してしまう。主人公は聖人君子ではないし、ヒーローでもないし、どこか臆病で少しずるかったり、弱かったりという面を持っている。著者の作品に対する正直さというか誠実な印象があって好きなのです。

この人は実に多くの作品を、なんでこんなペースで書けるのかと単純に疑問なほど書いているんだけど、多くの話は、泣けます。見るからに泣かせてやるぞ、っていう作品には興ざめしてしまって泣くことはないのだけれど(泣いてたまるか、いい年して)、この人の作品はさりげなく、じわっと泣いてしまうのです。いい年して。泣きたくて読むわけではないのだけど。

で、数多い作品の中から「団旗はためくもとに」。

応援団の団長だったお父さんと、高校生の娘の話です。40越しても応援団時代の気概のまま、不恰好でもずっとスジを通して生きているお父さんと、なんとなく生きている娘の話なのだが、あらすじは詳しくは書きません。

娘の考えでは、試合(と人生)には、サッカーでいえばピッチに立つ選ばれた選手たちと、スタンドで見てる観客の2種類がいる。観客だって経営のためには必要なのだから、自分は観客でもいいじゃんか、と。試合には、選手を応援する応援団もいるのだが、娘にはそんなの「意味ないじゃん」と思える。

応援する者は、選手たちが戦うピッチに入ることはできない。直接手助けできることは何もない。でも、声を出して、お前は1人じゃないぞと叫び続ける。それが大きな力になる。人生(というか生活)でも、誰かを直接なにか助けてあげられることってほんとはそんなになくって、自分でなんとか解決しないとどうにもならないってことが多い。そのとき、1人じゃないぞと応援してくれる人の存在がどれだけ大きいことか。

というような話なのだが、お父さんは娘に、応援とはなにか、尋ねられる。お父さんはそれは「押忍の心」だという。では「押忍」とはなにか。

「『押忍』っていうのは、押して、忍ぶ、わかるか?」
「ぜんぜん」
「『忍ぶ』って言葉の意味はどうだ?」
「我慢する、って感じ?」
「うん、まあ、言いたいことをグッと呑み込んで耐える、って言う意味だな」「でもな」

「逃げながら耐えているんじゃない。押してるんだ、引いているんじゃなくて。口に出してああだこうだ言うんじゃなくて、黙って、忍んで、でも負けない。それが『押忍』の心なんだ。」

「人生には押して忍ばなきゃいけない場面がたくさんあるけど、いちばんたいせつなのは、なにかに後悔しそうになった時なんだ。後悔をグッと呑み込んで、自分の決めた道を黙々と進む、それが『押忍』なんだ、人生なんだ。」


なにか挫けそうな気持ちのときにでも読まれると、がんばろっていう気になりますよ。


「小さき者へ」重松清著に収録。




--
takaoh
押して忍ぶ。

終了