福岡紀行
2008年07月15日
九州旅行の日記2日目は福岡編。 こちらも古くから外交と防衛の重要な拠点だったわけで、地図を見ると朝鮮半島までの距離って、広島くらいまでの距離しかなく、奈良の都なんて遥か彼方。奈良からしたら辺鄙な地に左遷というイメージだったのかもしれないけれど、福岡は外国の文化や物品がいち早く伝わったり、また中国などとの戦争の拠点でもあったり、最先端の地だったのじゃないのかなという気がします。 まず最初に訪れたのが、大宰府。太宰府じゃないほうの大宰府。大宰府政庁跡全景。7世紀に建てられた、今でいえば官庁ですが、南側には朱雀大路が広がり、東西北側の周囲を山で囲まれた、軍事上にも重要な地形になってます。重要な遺跡だけれど、観光客はまったくおらず、ひろびろとした緑の公園って感じで、BBQをしている一団がいました。楽しそうだったけど、文化財保護法で規定された国の特別史跡でBBQなんて許されるものだったのか。 白村江の戦いの後、新羅の軍隊が報復に日本まで攻めてくるのに備えて水城(水の張った堀)を作り、最終的には大宰府で迎え撃ち、いよいよとなったら軍隊は周囲の山に逃げ込み、援軍が到着するのを待つ、という作戦だったようです。そういう地の利を生かす綿密な戦術を立てたのは、日本の連合国だった百済から来た兵法家たちだったそうで、当時の日本は朝鮮の国々に200年は遅れてたとか・・・地元のボランティアのおじいさんの説明を聞きながら、ああ、それは孫子の兵法書の内容に則した戦術だったのだななどと、遥か昔に思いを巡らせました。 それらが契機になり、日本もあり方を考え直さねばということで大宝律令ができ、それを持って「日本」という国が誕生した(それまでは「倭」だもんね。)という、日本の成り立ちにとっても大宰府は重要な場所だったのでした。 なお、現在は静かでのどかなこの大宰府ですが、当時は西側に常時1万2千の軍隊が待機していたそうです。
ここが建物の跡。ここで政治を司ったり、納税品(当時は物納)を受領したりしていたわけですね。
正面が天皇の場所。実際にはえらい大臣が来たり、親王が天皇の代理で来ていたそうです。 ひろびろとした場所で気持ちがいいや。BBQでもやりたいね(ウソ。) その後、大宰府じゃない太宰府の方にある天満宮に参拝に行きましたが、こちらは省略。 で、次に向かったのが、
なんか立派な石碑が立っていますが、元の14万人の軍隊が海から攻めてくるのから守る目的で作られた防塁なので、当然ここは海岸線。海水浴場になっている砂浜の後ろの防砂林の中に立っていました。大事な国の史跡であるからBBQやキャンプなどしてはいけないよとの看板も。 元寇は2回あって、最初はちょっと脅して、また来るぞ、嫌だったら降伏しろ、という威嚇行為だったものと思われます。すぐに帰ってしまいました。日本軍は海沿いで戦うものの、劣勢になって大宰府まで逃げ帰ったということなので、やはりこのときも大宰府が、その地形も含めて要塞として機能していたのでしょう。 日本は元の属国にはならず、防衛する道を選択し、そこで福岡の海に沿って、20kmにわたる石塁を築くことにします。
その跡がこれ。当時は高さが3mもあったらしいのだけれど、700年の年月はその壁を砂に埋もれさせてしまった。
これはその一部(200m)を掘り返して保存したもの。当時、石の一つ一つを時間をかけて運んだんだろうなあ、と、蒸し暑い中、そのご苦労を想像せずにはいられませんでした。 ここで当時の御家人たちがふんばった(肉体的にも、そして経済的にも)結果、2度目も元軍は撤退、日本が守られたわけで、このときもし負けてしまって植民を許していたら、今と違う日本になっていたかもしれません。 防衛のための戦いでは戦利品があるわけではないので、政府も褒賞金を出す財源がありません。御家人の負担を補いたくてもできなかったために、「君たちのおかげで元から日本が守られたのじゃなくって、貴族がお祈りした結果、神風が吹いたからなのだよ」という苦しい言い訳をしたのかもしれません(という説があって、僕はもっともらしいと思っています。)であるならば、それがきっかけで、後世になって、根性さえあれば神風が吹くから大丈夫、というような根拠のない理屈できちんと準備をせずに無理な戦いをしたりしていくことになってしまったのかもしれない、と思い、残念にも思います。 そこからは一度空港に戻って、今度は海沿いにある東郷公園(中に東郷神社があります)に出かけました。
20世紀初めの日本海海戦の場所を臨むこの場所に東郷神社が建てられています。東郷元帥に心酔した方が建てた神社だそうで。マニアも高じてここまで来ると立派です。100円払って入った宝物殿の中には戦艦三笠の巨大な木製の模型がありましたが・・・なんだかまるで違う船に見えました。でも、宝物殿の外に置いてあるこれは、本物の三笠の主砲の一部だそうです。30サンチ砲ですね。
公園は小さな山の上にあるのですが、その展望台から臨む日本海。展望台には日本海海戦記念碑があり、その碑は船の形をしていました。海に向かって「主砲」までありました(写真の右端にうっすら写ってる)が、ちょっとやりすぎな気も・・・。 ともかく、当時、日本海軍各員が一層奮励努力した結果、ここでロシアのバルチック艦隊を撃滅し、日本が守られたわけで、もし負けていたら、今とずいぶん違う日本になっていたかもしれません。 -- takaoh
おまけその1:元寇防塁跡からの帰り道に福岡市内で見つけた。
その2:鳥栖から博多に向かう電車内で発見した。警察官になる方の中で九州出身の方が多いということを昔からよく聞くが、我らが神奈川県警のリクルート用広告。これって最近横浜駅なんかにも貼ってあるのと同じものかな。
- posted by takaoh
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