北京オリンピックのオープニングを見ていて
2008年08月09日
日本時間夜9時から生中継された、いわくつきの開会式の模様を見ました。 いかに中国がすばらしいかを主張することに費やされたその光景は、 私の胸に届くものがありませんでした。 花火でかたどった足跡が鳥の巣スタジアムにやってくるのはちょっとグッときましたが。 もちろん、ああ凄いな、と感心したけれども。 千手観音のパフォーマンスも見落とした(やってた?)。 全編凄い演出で彩られたこのオープニングセレモニーに感じるものが無かった理由を考えてみた。 さまざまな問題を孕む今回の五輪だから、そういった先入観があるのかと 思いましたが、いや、それとはまた別だ。 何がおかしい? 私が一番感動したオリンピックの情景というのは、バルセロナオリンピック の演出でした。色鮮やかでありながら、控えめなオープニング。 バルセロナの町から沸いて出てきた妖怪のような仮装行列風の先導員に導かれながら、すぐに主役である選手たちの入場へと移っていき、なによりも心に残ったのが最後の聖火の点火シーン。 車椅子のアーチェリー選手が、何食わぬ顔で登場し、聖火を矢に点す。 「え?とどかないだろ?はずしたらどうするんだ?」 というような、こちらの一瞬の戸惑いを見透かしたように、あっというまに矢は射られ、聖火台に着火するという演出。 よくよく考えれば、それら一連の動作全てが演出なわけで、 あのときの、計算されつくした演出は忘れられません。 ああ、スペインは芸術の都なんだとしみじみと感じました。 そしてそんな感動は今回のオープニングには感じなかった。 この差は、突き詰めるとその演出プランの根本にあるのだと気づきます。 バルセロナは、あくまで選手が主役であり、芸術表現そのものは湧き上がる人間の、 隠しようも無い情熱そのものとして位置づけられていた。 最後の聖火点灯の瞬間に全ての時間を集約し、そしてその点火をもって 五輪は開幕を告げる、計算されつくしたストーリーだった。 今回の北京の、過剰な思想的演出、冗漫な光の量はむしろ、選手を迎え入れ これから始まる五輪を、そのアスリートを讃えるものでは一切なかったと思う。 なんで中国国旗を胸につけた宇宙飛行士が必要なのか。 胸に残らない。さびしいものとなってしまったと思うのです。 今回の五輪。千手観音が選手団を迎え入れるだけのような、 シンプルなもののほうがむしろ良かったのではないでしょうか?
- posted by 八月のエリゼウ
- 08:06
- Insect's eyes, bird's eyes, and corns

