vs 仙台戦(ホーム)観戦後記・その3
2008年04月10日
既に遠い過去の記憶となりつつある、日曜日(4/06)の仙台戦。1980年代に憧れたヒーローに偶然出会った「神様の思し召し」を、記憶に刻むための観戦後記; 『日本鋼管(NKK)のゴールハンター・松浦敏夫さん』と握手した!!! 試合開始前の入場口付近、ゴール裏アミーゴの悪友氏から「チャント歌詞のビラ配り」を依頼された。シャイで人見知りなボクだけど、依頼を断りきれずに引き受け、入場口でビラ配りを始めた。 そーしたら、一般入場口に「ブレザーにネクタイ姿で、背の高いナイスガイ」が表れた。その御方こそが、かつてのJSL得点王・松浦氏だった。 「日本鋼管の松浦敏夫」と聞いても、若い方々には通じず、オヤジ世代ファンしか判らないかなぁ。強引に例えたとして、今から「20年後の2028年に、ニッパツ三ツ沢スタジアムで高原直泰(現浦和)に偶然会った」と仮定してみると、話が通じ易いかと思います。 松浦敏夫さんを簡単に紹介すると; 現在 Jリーグマッチコミッショナー委員会委員。 所属クラブ(現役時代) 1971年 - 1973年 横浜緑ヶ丘高校 1974年 - 1977年 早稲田大学 1978年 - 1991年 日本鋼管(後のNKK) 個人タイトル JSL得点王(ゴールデンボール賞)2回 1986-1987 22試合/14ゴール 1987-1988 21試合/11ゴール 年間優秀11人賞 2回(1986-1987、1987-1988) 松浦氏は190cmの長身FWで、1980年代の日本サッカーリーグで大活躍した大型ストライカー。横浜緑ヶ丘高校から早稲田大学に進み、1978年に日本鋼管に『入社』。1978年から1990-91年シーズンまで、日本リーグ(JSL)に所属する日本鋼管(後のNKK)サッカー部でプレー。 全盛期は80年代後半、JSL得点王を2度獲得、同時に年間優秀11人賞にも2回選出された、という輝かしい経歴を持つ。なお、松浦さんの全盛期には、フォクツ氏(ドイツ)からブンデスリーガへ誘われたこともあった、と聞く。 2年連続得点王の松浦を持ってしても、優勝には届かなかった日本鋼管だったが(3年連続準優勝)、1986-87年シーズンは、終盤まで読売クラブと壮絶なデットヒートを展開。迎えた最終節、先に試合を終えた読売はマツダによもやの敗戦。その結果を知ってから、日本鋼管は日立製作所とホーム三ツ沢で、優勝を掛けて戦った。(信じられない事だが、昔は最終節が、同時刻開催では無かった。) 見事に日立に勝利し、読売クラブと勝ち点で並んだ日本鋼管だったが、得失点差で劣り、無念の準優勝となった。日本鋼管が最も優勝に近づき、扇島にある世界最先端の溶鉱炉に負けない位、真っ赤に三ツ沢スタジアムが燃え上がった一日だった。そのバックスタンドに、先に試合を終えていたラモス(読売クラブ)が駆け付け、鬼の形相で観戦していたシーンを記憶している方も多いのではないか。 この時、優勝した読売クラブの一員として活躍していたのが、若かりし頃の都並敏史。それから21年という長い年月が経った今、横浜FC監督として都並が指揮する試合を、日本鋼管の松浦敏夫さんがマッチコミッショナーとして見守っている(た)。 こんな光景に出会えて懐かしく想うとともに、ボクはとても幸せなキモチになる。「歳は取りたくない」が中年オヤジの常套句だけど、『歳を取って良かった』と想う事もタマにはあるもんだなぁ。こーゆう小さな幸せを求めて、ボクはスタジアムへ通っている。 なお、冒頭で紹介した「チャント歌詞のビラ」。遠慮する松浦敏夫さんにも無理ヤリ渡して、受け取ってもらいました。「おっ、マツウラじゃん!」と握手を求めるボクに、気さくに応じてくれた松浦さんでしたが、ビラを受け取る際は少々苦笑いしていた様な感じが・・・。 (マッチコミッショナーにチャント歌詞ビラを手渡す、ってのもナカナカ勇気が必要なワケで・・・)・写真1 松浦敏夫(NKK/日本鋼管)のプロフィール(写真3の蔵書より) 写真中央のゼブラカラー(ユベントス風タテ白黒)ユニフォームが、松浦さん。
・写真2 1987-19888日本リーグ1部の「年間優秀11人賞」(蔵書より)
・写真3 1988-1989年/第24回日本サッカーリーグのプログラム(蔵書) 以下、フットボールとは全く関係無い、ボクの個人的な想い出; 金属工学修士であるボクは、「鉄鋼マン」に憧れていた。サッカー観戦にも行かず(行けず)、実験と研究の日々だった学生時代。連続鋳造とか、ステンレス鋼とか、マルテンサイト変態とか、脆性破壊のメカニズムとかと格闘しつつ、トモダチは透過電子顕微鏡だけだった。そんなボクにとって日本鋼管は、子供の頃から憧れ続ける「夢の会社」。 大学院生時代には、恩師のツテで日本鋼管の扇島製鉄所を、工場見学させて頂いた経験もある。真っ赤に燃える溶鉱炉を見て、「これぞ、男の仕事だ!」と妙に興奮したのを、今でも良く覚えている。ちょうどあの時、松浦さんも同じ製鉄所のどこかで仕事か、練習をしていたはず。 (結果的には学力が足らずに、日本鋼管には門前払いを喰ったわけだが)もし、念願かなって「鉄鋼マン」になっていたならば、松浦さんとは同僚、先輩と後輩だったかも知れないなぁ。。。 『後悔、後に立たず』。 今になって、「もっと勉強をしておけば・・・」と痛切に想う。
- posted by ken1eagle
- 20:20
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